大沼ねこひ日記

三月の羊の製造以外(企画、営業、広報、売り子 +マイフィールドの喫茶、絵本、gallery)を担当。高崎→東京→大沼へ

おじいちゃん

生きているだけでやっとという寒さ。
しなくてはならない事があるのに、始動まですごく時間がかかる。
一日にほんのちょっとの事しか出来ず、
自分の力のなさを思い知る。

<あかり農場で生まれたばかりの子豚たち>

明治生まれの祖父が99歳でこの世を去り、一年経った。
国鉄勤務を経て、私が生まれた時には群馬の磯部で晴耕雨読の生活を
していたので、私にとってのおじいちゃんはいつも畑と結びついている。

4歳頃だったろうか、おじいちゃんが大切に育てていた大根を抜いて
怒られた。たぶん、大人の真似をして、抜いてよいものと悪いものが
わからなかったのだろうけど、ショックでそれから畑が少し怖くなった。

それでも行く度に畑の野菜を分けてもらったり、春は筍をもらって、
母が夜遅くまでゆがいていたのを思い出す。
独自の健康観を持ち、体に良い黄色いキウイやモロヘイヤなど、
当時は少し珍しいようなものも早くから育てていた。

人付き合いは下手だったように思う。
とても正直で、笑っちゃうくらい真面目な人だった。
庭には大きな石がたくさんあった。
薪で炊いたお風呂に入っていた。

関東大震災を経験しているおじいちゃんには独特の人生哲学があるようにみえた。
子どもの頃、建てたばかりの蔵について、物を入れておく場所というより
「何かあった時みんながそこで暮らせるようにと思って建てた」
と話していたことが印象に残っている。
みんなのことを考えてくれているんだなぁ、非常事態の事を
考えて生きているんだなぁと、驚きとともに感銘を受けた。

テレビは「一億総白痴ですわ」とあまり見なかったようだ。
耳が遠くてもボリュームが調節できるよう父が贈った電話が
鳴らないというので見に行ったら、電気が勿体ないからと電源を抜いていた。
コンセントは使う時に差すものという意識だった。

その時は笑い話になったけど、1999年に友人のふるさとで起こった
東海村の原子力事故以来、電気をなるべく使わない生活へ向かって
歩き始めていた私には、おじいちゃんがごく自然に行っている
節電の精神がとても尊いように感じられた。
自分で食べるものを自分で育てるというスタイルも同感だ。

もうすでに、私はおじいちゃんから、今のような時代を生きるヒントを
たくさんもらってきた。
だけど体力がなさすぎて、頭でわかっていることがぜんぜんできない。
泣けて来るくらいできない。

でもそれも少しだけ、このごろは許せるようになった。
体力がなくても生きられる環境ができた背景に、
たくさんの苦しいつらい思いをした人たちを感じるようになったから。
息子を生んでから、大沼へ来てから、そのことが身にしみて伝わってきた。

臭くて寒いトイレ、手がちぎれるような冷たい水、
冬には穫れなくなる野菜、気晴らしができない現実。
その気持ちも味わって、さらに先へ、ただ前へ戻るのではない
選択をできたら。