大沼ねこひ日記

三月の羊の製造以外(企画、営業、広報、売り子 +マイフィールドの喫茶、絵本、gallery)を担当。高崎→東京→大沼へ

私の3月11日


あの日から5年が経ちましたね。
皆さんそれぞれの想いを抱え、毎日を生きて来られたことと思います。
私の3月11日はこれまで語ることができなかったのですが、
5年経ち、少し気持ちが落ち着いたので、書いてみようかと思います。
お時間ある方はおつきあいください。

2011年3月11日、地震のあった時間、私は息子と家にいました。
揺れ自体は、損傷もなくほどほどだったのですが、ただならぬ気配を感じました。
丁度、2004年から手放していたテレビを、夫がサッカーをどうしても見たいというので
購入した直後でした。

東北が大変なことになっている。テレビとインターネットですぐに状況を知りました。
そしてほどなく釜石の親戚が行方不明と身内から情報が入りました。
「釜石のおとうさん」と慕っていた方です。釜石を訪れた時の豊かな自然が思い出され、
歩いた場所に津波が襲い掛かる映像を、信じられない思いで見ました。

私は何とかかけらでも「釜石のおとうさん」の生存情報を探そうと、目を皿のようにして
テレビにかじりつき、インターネットで検索をしまくりました。
これがいけませんでした。
移住後はじめての冬でいわゆる「冬鬱」のような状態になり、少し前に祖父が他界したり、
身近な人が事故に巻き込まれるなど、精神的に弱っていたこともありました。
久しぶりのテレビは小さくとも刺激が強すぎ、あろうことか、
私は自分が津波に巻き込まれたかのような精神状態になってしまったのでした。

失恋しても食欲だけはあるというタイプだったのですが、嘔吐しました。
数日後でしたでしょうか、夫が外から小さな桜の枝を取ってきてくれました。
それを家に飾ることで、なんとか少しずつ日常を取り戻していったように思います。
(3月11日から数週間の記憶は曖昧です)
飛び交う情報の中、ちらりと今一番応援が必要なのは福島だろうな、と思いましたが、
ご支援は他の方に任せ、まずは自分をしっかり保つことに専念ました。

その時心を開いて話せる友達がたくさんいたら、もう少し早く平静を取り戻したでしょう。
けれども移住してから日が浅く、友達になった家族は数家族。
彼らは皆意志が強く東北に親戚もいないようでしたので、原発反対運動の方に
肩入れをしていました。

まだ息子が小さいので家を離れることはできない。お仕事のお客様への対応もある。
持ち場を離れて支援に行くことは、何かおかしいと思いました。
それどころか、自分の仕事も中途半端で落ち着き先を探している状況で、
経済的にもやっと過ごしている状態。
夫と話し合い、まずは自分たちが身を立てること、仕事をしっかりやること、
と心に決めました。

このままではダメになる。今年中に家と工房を建てよう、と2011年の3月下旬に決断した
夫の勇気を、私は本当にすごいと思います。
見せかけのボランティアや反対運動ではない、心からの「答えを生きる」という
パーマカルチャーの原点ではないでしょうか。

すでに原発については答えを出し、覚悟をしてきたことも大きかったでしょう。
私は学生時代に東海村の友人がおり、1998年頃の東海村原発事故で、
小さな3.11を経験していました。事故が起こった→不安になってKくんへ
電話すると災害ダイヤルになってつながらない。

規模は小さかったものの、「原発で事故が起こると、故郷を失うことになるのだ」と
強い記憶として残りました。後日仲間宅で集まった時の、Kくんの
「おいTくん、使ってない部屋の電気は消せよ」という強い語気と共に、
その体験は私の中に大切にたたまれ、以後高木仁三郎さんのわかりやすい言葉で書かれた
本などで、原発についてある程度の答えを用意していました。

そんなわけで、3.11以後の原発勉強会に参加するつもりはありませんでした。
怒って解決する問題ではない。そこには諦念があるだけでした。
とは言え、そうした活動が無用とは思っていませんし、運動の大きな力の可能性も
感じましたので、署名だけは協力していました。

あの日以後、ボロボロになった私には、むしろこれまで環境的な配慮から敬遠していた
ジャンクなものが必要な時がありました。ナチュラルを貫くのをやめ、
自分の自然にまかせて必要に応じて、それらを感謝しながら取り入れました。
怖くて見られなかったテレビも、タモリさんと久本雅美さんが出ている番組だけは
見られるようになり、お二人の力量を感じました。

しかし2年前でしたか、再びタモロス。これは困りました(人に言うと笑われるんだけど)。
「笑っていいとも」最終回では、どんなにつまらなくても最後まで見るぞ、と
決心して見遂げると、想像以上の面白さがありました。こんなにテレビで素を出してしまって、
この人大丈夫なのかしら、など要らぬことを考えつつ、やはりそこにタモリさんがいたからこその
場の力が生まれたのだな、と感服。

ヨルタモリ」を経て「ブラタモリ」、本当に助けていただいてます。
ブラタモリ」で得る快感は、自分が大沼で物足りないと思っているものが
何かを教えてくれました。そしてそれがあれば、逆に大沼で暮らすことに
何の不足もないのだとわかりました。

家が出来上がり、仕事場ができ、友達を作り、少しずつ少しずつ足場を確かなものにしていきました。
自分に必要なものを掘り下げ、これがあれば落ち着くんだな、と見極め、後は体を使って
作業をしていく。途中次男が生まれるなど再びかく乱されることはありましたが、
食いしん坊であることを手掛かりに作業を進めました。
友達とお客様をはじめたくさんの方に助けていただきました。

東北の方々への支援方法も決まり、自分のできることを無理なく続けることにしました。
今いる場所で自分と家族を大切にし、その上でできることを積み重ねていくという基本を
大切にしたいと思います。

かなりざっくりですが、こうして私は今、2016年の3月11日を迎えることができました。
亡くなったたくさんの方のご冥福をお祈りし、
今生きている全ての方々の幸せを祈ります。